★西アフリカ:エボラ熱の拡大とたたかう医療労働者の勇気
英国「ガーディアン」紙10月8日付に掲載されたモニカ・マーク記者のナイジェリア・ラゴス発のレポート(タイトルは「エボラ危機―西アフリカの前線の医療労働者はいかに自らの生命を犠牲にしているか」)は冒頭で、次のように指摘している。
「この疫病は保健・医療システムの貧弱さを暴露し、約3500人の死をもたらしたが、現地の医療労働者の勇気がなかったら、死者の数ははるかに多かっただろう」。
アフリカ第2の都市、ラゴスの病院に勤務していたアメヨ・アダデポーさんは7月21日、いつものように患者の診察をしていた。その中に、前日に高熱と嘔吐で運び込まれた患者がいた(その時点での診断は重症のマラリア)。米国籍を持つリベリア人のパトリック・ソーヤー氏は、隔離命令とリベリアおよびナイジェリアの3つの防疫体制をすり抜けて入国し、同国初の感染者となった。
アダデポーさんが勤務する小さな病院が臨時のエボラ病棟となり、内分泌系障害の専門医アダデポーさんは国内感染防止の役割を担った。政府がこの患者の移送準備を整えるまでの6日間、アダデポーさんの機敏な判断とスタッフの献身的活動で感染拡大を抑制した。
この国でこれまでエボラ出血熱で死亡した7人中4人が医療労働者だった。アダデポーさんもその一人である。
彼女の息子のバンコールさんは「……母は人々が信頼できる医療センターの維持のためにナイジェリアにとどまった。結局、ナイジェリアのシステムが母を死なせた」と語っている。
西アフリカの混雑した病院は、患者・医師双方にとって恐怖の場となっている。シエラレオネでは救急車での搬送時や遺体処理の際に防疫のための適切な措置が取られなかった例が報告されている。
WHO(国際保健機構)の基準では、70床規模の治療センターを安全に管理するには200人以上の医療スタッフが必要で、うち5分の1はスタッフのトレーニングと管理ができる外国人スタッフが必要である。国際的支援として技術者や医療品、金銭は入ってくるが、現場スタッフが決定的に不足している。
公共医療労働者240人余の死亡も脆弱な医療体制には大打撃だ。
ナイジェリアはラッサ熱(エボラ熱に似た感染症)の発生国であるにもかかわらず、西アフリカでエボラ熱の感染拡大から6ヵ月後でも、まともな隔離病棟が1棟もなかった。そこでアダデポーさんとスタッフは6日間にわたり、患者の分離、病院全体の消毒、エボラ熱に関する情報の収集と配布を政府の支援なしに独力で行った。
リベリア政府がソーヤー氏の外出(彼は高級官僚であり、会議出席の予定があった)を求めたとき、病院はこの要求を毅然として拒否。隔離病棟完成後にソーヤー氏が移送されても、アダデポーさんは他の医師が治療を拒否したため、ソーヤー氏の治療を続けた。
政府の対応が遅れる中、医療労働者たちは感染者との接触の可能性がある900人の往診と検温を実施した。
一方、シエラレオネでは、国際機関の医師が撤退した後、代替の医師を確保できず、人口600万人の国に医師が120人だけであり、ただ1人の脳出血専門医も死亡した。リベリアでは人口7万人につき医師1人という状態である。
エボラ熱は昨年12月にギニアで最初に発生。人口1万人に医師1人というこの国では、2ヵ月間、病名を特定できなかった。
病名特定の時点で、すでに感染はシエラレオネ全土に拡大しており、同国ではケネマ州立病院の医療労働者の大半が逃げた。この中でシェイク・ウマル・カーン医師は1週間余にわたり1人で治療にあたった。彼は6月に保健省に、スト中の労働者の賃上げと待遇改善を訴えた。水道もない劣悪な条件で若い医師を確保したり、医師への信頼を保つことは困難だった。
カーン氏の死亡により、一般の人々は事態の重要性をようやく認めた。コロマ大統領は、批判の高まる中で、カーン氏の死亡から数週間後に感染地域をはじめて視察した。
シエラレオネでは医療にGDPの15%以上の予算が投入されているが、腐敗・不正が蔓延しており、現場では感染防止用の手袋や保護服すら欠乏している。救急車のガソリンさえ流用されている。 (「ガーディアン」紙10月8日付)
キューバが461人の医師派遣へ
同紙10月12日付で、モニカ・マーク記者は「欧米が国境管理に腐心している一方で、キューバがエボラとの闘いの先頭に立っている」と題するレポートの冒頭で、次のように指摘している。
「この致死性の感染の抑制を支援するためにこの島国が数百人の医師を派遣している一方で、富裕国は、大量の支援が緊急に必要であるという国連の警告に留意するのでなく、自国の安全を心配している」。
キューバはすでに165人の医師・医療スタッフをシエラレオネへ派遣しており、最終的には合計461人を派遣する。国境なき医師団は、感染が報告された直後からボランティアを派遣しており、合計250人が現地で治療にあたっている。このほかAU(アフリカ連合)が100人の医師を派遣する計画である。 (同紙10月12日付)
★インド:ノーベル賞受賞で児童労働への関心が高まる
パキスタンのマララ・ユスフザイさんと共にノーベル平和賞受賞が決まったインドのカイラシュ・サティヤルティさんは、1989年8月に東京と大阪で開催されたAPWSL(当時はAWSL)総会にインドから参加され、その後、児童労働反対のデモや04年にムンバイで開催された世界社会フォーラムなどでも活躍されており、覚えている人も少なくないだろう。
彼は1954年生まれで、電気技術者だったが、1980年に児童労働と人身売買を一掃するためにバチャパン・バチャオ・アンドラン(BBA、「セーブ・ザ・チャイルドフッド運動)というNPOを設立した。
BBAは直接行動、つまり児童労働の現場を急襲して子どもたちを救い出すという、ラディカルで、しかも緻密な行動により30余年の間に8万人以上の子どもたちを救出した。
また、1998年に彼が中心となって呼びかけた「児童労働に反対するグローバル・マーチ」は103の国で一斉に行われ、その後の世界的な運動の広がりの大きなきっかけとなった。
彼はドイツのウェブ情報誌「DW」のインタビューに答えて、次のように語っている。
「私は子どものころから、そして学生時代もずっとこの問題に大きな関心を持っていました。しかし、私がこの活動を始めた当時は、児童労働の問題について、あまり知られていませんでした。誰からも教えてもらえませんでしたが、徐々に私は児童労働が根本的な人権の侵害であるだけでなく、自由と、よい未来を奪うものだということを理解するようになりました。そこで私たちはこの課題に取り組むことを決意し、闘いを始めました。闘いはさざ波のように徐々に広がっていきました。……児童労働は社会悪であり、だから私たちは人々の考え方を変えるために闘わなければなりません」。
これは法律を守らせるための闘いであり、マフィアや組織犯罪との闘いでもあった。2人の仲間が殺された。彼や彼の家族も何度も攻撃された (同誌10月10日付)。
インドの「ファーストポスト」紙によると、インドで児童労働は毎年1.2兆ルピー(1ルピーは約1.7円)の収入を生み出している。カイラシュさんは11年に「ワシントンポスト」のインタビューに答えて、インドにおける児童労働の実態を説明しているが、それによると5千万人の子どもが児童労働に従事しており、そのうちの1千万人は債務奴隷である。
BBAのレポートによると、子どもたちは年間約200日働き、日給は15ルピー(大人の最低賃金は115ルピー)。農業のほか、煉瓦工場、衣料産業、露天商、家事労働などで働いている。
BBAの活動は、「防止する、保護する、社会復帰させる」の3つの柱からなっている。特に、農村では子供を学校に行かせるための運動に力を入れている。
救出作戦では秘密裏に準備を進めながら、警察や関係機関とも連携し、また、救出した子どもたちを安心させ、債務奴隷から解放するための法的な手続きを進め、子どもたちのための仮の住居を提供し、親のもとに返し、就学手続きを見届ける。さらに、雇用主に対する訴訟を起こし、罰金や賠償金を支払わせる。政府にも社会保障のほかに、賠償金を支払わせる等の成果を上げている 。(同紙10月10日付)
カイラシュさんの活動がインドでメディアに取り上げられることは稀で、大部分の人はカイラシュさんの名前も知らない。ノーベル賞受賞をきっかけに、児童労働の問題への関心が高まっており、受賞決定の翌日にはモディ首相がカイラシュさんと会見し、受賞を称えた。
英国「ガーディアン」紙のベン・ドハティー記者は、カイラシュさんが発展途上国における児童労働の問題の複雑さを理解していると指摘し、次のように述べている。
「子どもの仕事、つまり子どもが放課後に週2〜3時間、親と一緒に仕事をするのと、児童労働、つまり子どもが学校に行かずに働き、家族がその収入に依存している状態とは明確に異なるものである。前者は貧困な社会の中では避けられないことであるが、後者は生涯にわたる貧困を決定づける。……カイラシュさんとマララさんの受賞はノーベル平和賞の趣旨と異なるという指摘もあるが、子どもたちを労働から学校へ戻すことは世界の平和に大きな貢献となる。教育を受けた子どもたちは世界を変えることができる」。
(同紙10月13日付)