最高裁 やっと水俣病と認定 行政の現行認定基準を批判
4月16日、水俣病患者が認定を求めた二つの裁判で、最高裁は原告勝訴の判決を下した。一人は溝口チエさん(故人)といい、1974年に認定申請し、77年に死亡。溝口さんの認定申請を21年間放置したのち95年に熊本県が棄却、次男の秋生さんが認定を認めるよう裁判で争っていた。
もう一人は水俣出身で大阪在住のFさんといい、水俣病関西訴訟(損害賠償)で最高裁まで争って勝ったが、行政認定申請が棄却されたので、やはり認定を求めて裁判で争っていた。しかし、判決の朗報を聞くことなく、さる3月3日に他界した。認定申請をしたのは82年だった。
この最高裁判決は、溝口さんを水俣病と認め、Fさんの方は、高裁の水俣病ではないとした判断が間違っているとして差し戻し(実質的には水俣病と認めよというもの)。二つの異なる訴訟で最高裁は同一内容の判決を下した。それにしては、あまりにも長い闘いだった。
水俣病の発生が確認されてから57年、いまなお被害者の闘いは続いている。水俣を取り囲む不知火海沿岸には、加害企業チッソの垂れ流した有機水銀を濃厚に含む魚貝類を摂食し続けた、10万人とも20万人ともいわれる水俣病患者がいるといわれている。しかし、環境省や熊本県は狭隘な認定基準をつくり、それにより認定申請者を切り捨ててきた。認定された人は2275人に対し棄却された人は1万7千人あまり。
この判決は、そうした行政の姿勢と現行認定基準を批判したものだ。行政はこの判決を真摯に受け止め、政策の方向転換を求められたわけだが、反省している兆しは見えない。
溝口さんの闘いは、水俣病差別の強い地元では時に孤立した長い長い闘いであったが、水俣や熊本、そして東京の支援者たちが支え続け、ひとまず勝利に終った。アリの一穴、城をうがつというところ。いま水俣では50代の若い世代の患者たちによる国賠訴訟も闘われている。水俣ではまだまだ闘いが続いているので注目してほしい。水俣病は終らない。
花田 昌宣(熊本学園大水俣学研究センター長)
「大日本印刷ムラ」を包囲・抗議 偽装請負、ピンハネやめろ
4月12日、大日本印刷(DNP)グループのビルが林立する新宿区市谷加賀町一帯の「大日本ムラ」に、デモに参加した500人の声が響いた。
このデモは、DNPの子会社DNPファインの工場で働き、クビを切られた橋場恒幸さん(49歳)の争議の解決のためのもの。全印総連、日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)などが呼びかけた。
ぽかぽかした陽気のなか、デモの列が長く延びる。先頭からは、日本音楽家ユニオンの仲間のバンドの演奏が聞こえる。
DNPファイン争議は、偽装請負を追及する争議・裁判の代表格の一つで、すでに埼玉労働局も偽装請負を認定している。しかも橋場さんの場合、就労先と書類上の雇用主(日本ユニ・デバイス)のあいだにもう1社(DNPミクロテクニカ)が入り、DNPファインが払っていた2千百円の時給を二重にピンハネする、悪質な二重偽装請負だった。橋場さんは1060円しか受け取っていなかった。
DNPグループにはこのほか、中小印刷会社から仕事を取り上げ、取った仕事からピンハネして低価格で再委託することで、利益を独り占めしているとの批判も出ている。
争議が始まって3年9ヵ月。解雇撤回事件の弁護士から「長い裁判になるから、組合に入って支援を受けたほうがいい」とアドバイスされ、全印総連傘下の個人加盟組合にたどりついた。夜勤の仕事で生計を支えながらとつとつと訴える橋場さんに、支援の輪が広がっている。
全印総連の是村高市委員長は「去年もデモをしたが、今年はナショナルセンターを超えて参加が広がった」。橋場さんは「これは私一人のたたかいじゃない。DNPは話し合いのテーブルについてほしい」と話す。
派遣・請負切りに対する勇気ある当事者とその仲間たちの汗が、松下PDPの不当な最高裁判決をのりこえ、現場から潮目を変えようとしている。
北 健一(ジャーナリスト)
経産省前脱原発テントひろばの強制撤去を許すな
経産省前テントひろばの強制撤去の攻撃が、いよいよ本格化した。テントの明け渡し請求の民事訴訟である。3月14日には民事訴訟の対象者(債務者=「ひろば」代表の渕上太郎さんと正清太一さん)を特定する仮処分決定の公示書が張り出された。さらにテントを「無許可設置」したとして1100万円の損害賠償請求も出された。3月29日には民事訴訟そのものが提示された。第1回の口頭弁論は5月23日、東京地裁で行われる。
2011年9月11日の経産省包囲行動日に設置された経産省前脱原発テントは、実に1年半以上にわたって、猛暑の日も、雪の日も、台風の日も、「原発いらない」の思いをつなぎ、故郷も生活の奪われた福島の女性たちの怒りを伝え、今も日々刻々深まっている原発被害の責任者である国家を鋭く追及してきた。
テントひろばの前では多くのイベントが行われ、全国からやってきた人びと、外国の人びとが意見を交わし、語り合う交流の場となった。昨年来の首相官邸前・国会前での脱原発のうねりは、テントが果たしてきた役割ぬきには語れない。テントはまた、首都圏から原発立地へ、被災地福島へ人びとを送り込む拠点だった。
テント撤去の民事訴訟は、安倍政権の下で原発依存の政策が継続し、再稼働の動きが本格的に拡大していくこととセットの攻撃である。そしてこれは原発問題だけでなく、労働者・市民の自由な意思表示の権利を「公の秩序・公益」の名で押さえこもうとする改憲の狙いとも連動している。
経産省前テントひろばの人びとは、5月23日の第1回口頭弁論に向けて、この裁判を大きな政治運動にすることを呼びかけている。テントの当事者は二人の代表だけではなく、テントに泊まり、テントを訪れて意見を交わした幾万人もの人びとすべてであるという思いが、この呼びかけにこめられている。テントを守り、脱原発の意思を広げ、深め、原発推進に賭けた権力の意図を砕くために、ともに行動しよう。
国富 建治(運営委員)
労働組合運動の危機克服をめざし新たな「労働運動研究討論集会」開催
4月20日〜21日、東京・全水道会館で「労働運動研究討論集会」が開催された。全港湾・伊藤委員長、国労本部・石上委員長、大阪ユニオンネット・垣沼代表、都労連・武藤委員長など13人の呼びかけに応え、1都2府13県から16産別などの活動家約150名が参加した。
かつて労働戦線の右翼的再編に反対した労働運動研究センターの流れをくむ「労働運動研究フォーラム(略称=労研フォーラム)」を中心に、今回の討論集会は企画され、スローガンには、運動の方向性を示す意味で「正規・非正規の連帯で、原発も貧困もない平和な社会を切り開こう」と掲げられた。
もとより労働組合の社会的影響力低下は顕著であり、労働運動の再生は容易ではない。集会参加者の平均年齢はかなり高く、男性ばかりが目立ったことが、世代交代の困難さを含め、現下の危機的状況をあらわしていた。しかし「公務職場」「非正規」「地域労働運動」の3つの「現状と課題」などでの発言は、現場の運動を踏まえた内容のあるものが多く、特別報告の沖縄と原発・除染労働を加えれば、発言者は27名を数えた。その中には新聞労連や首都圏青年ユニオンなど、潮流を超えたものもあり、新たな拡がりも感じさせられた。
もちろん連合の評価やコミュニティ・ユニオンや企業別労働組合の位置づけ、さらには非正規労働者へのアプローチなど、立場や運動スタイルの違いも散見された。しかし、今こそ何とかすべきであり、そのためには手をつながなければならない、との強い意欲もあふれていた。
基調的提案を行った伊藤委員長は、集会のまとめで「かつての右翼的労戦統一反対のような『結集軸』は見出しにくいが、このままでは労働組合が失われかねないとの危機感は共通している。それぞれの職場や地域で何が起きているのか、企業の壁を越え、知ることから自らの変革も生まれる」と集会のまとめで述べ、継続的な開催と「レポート労働運動研究」の定期発行による情報交流を強く訴えた。
水谷研次(編集部)
日日刻刻 改正労契法・企業の対応に遅れ (3・27〜4・10)